ウィモバの日々

Windowsをモバイルする…それがウィモバ(仮)。手のひら端末が好きです

マルドゥック・スクランブル漫画版に「聲の形」を期待すると大惨事になったりならなかったり

そういえば先月「このマンガがすごい!2015」が発表されちゃったねー。
自分も去年読んだ漫画でそのうちランキング作ろう。まぁ去年は忙しくてあんまり漫画読めてなかったけど・・・><;

1位は秋田書店が誇る鬼才阿部共実先生の「ちーちゃんはちょっと足りない」と週刊マガジンの大今良時先生の「聲の形」という作品。
優劣はともかく確かにどちらもいい作品だったんだけど、大今先生の作風?でちょっとだけふと気にかかったというか。
まぁ俺の低知能な頭脳では難しいことはいえないけど。


たとえば阿部共実先生の作風はウェブで公開されていたタダシくん、空灰の欝回やちーちゃんみたいに読者を突き落として後味悪いか
はたまたドラゴンスワロウやギャラクシー6のようにほのぼのしたまま終わるかという感じで作風自体は確立してる気がする。
同じ作者の別の作品を読む時に、だいたいの場合はある程度は予測がつく?予測とまでは言わないけど雰囲気は共通している、気がする。
荒木漫画だとジョジョやバオー等、他の作品を通して根底に人間賛歌があるとかないとかいうし。ジョジョは完全にシリーズものだから、というのもあるけど。
荒木先生の弟子といえるソウルキャッチャーズの神海英雄先生も同じように人間賛歌を継承した爽やかさを全作品に持っているといっても過言ではない。

かの手塚作品でも、作品ごとに舞台設定やストーリー、キャラクターこそ違えど同じ作者が描いているからこそ根底に作者の思想があり、
その思想に基づいて描かれたキャラ達の言動からなるほど、同じ作者だなぁと思わせるテイストがある。
あまりにも全然手塚作品と違う!みたいな印象の作品はほとんどないというのか、俺が無知なだけで手塚先生の甘甘な萌えラブコメとかあったらごめんなさい。


このマンで有名な先生の作品を読んでみようと「ちーちゃん」を読んだ人が他の作品を読むと大体は同じテイストを味わえるんだけど
大今先生の前作のマルドゥック・スクランブルは原作付きのSF作品で大分テイストが違うので、
もしこのマンから聲の形を知って大今先生の前作も読んじゃおう!と思って手を出した場合に困惑するのかなー、とかそんな感じ。


たとえば今マンガボックスというところでマルドゥック・スクランブルが毎週掲載されているんだけども、その最新話を抜粋してみると
前回あたりで颯爽と登場しつつ大量(少量)殺人しちゃった猟奇的な変態さん集団たちのお披露目回なんだけど、

 

お、おう・・・ 揃いも揃って人体パーツを身に着ける変態だしリーダーさんはあまつさえ手にプッシー移植しちゃうような人で依頼主さん(右一番下)もちょっと引いてるし

見てください、ターゲット(ヒロイン)の映像を見た変態さんたちの嬉しそうな顔・・・!
依頼主さん(右一番下)もドン引きですよ。
ちなみにヒロインの少女の映像が何故裸なのかというと非人間的な扱いを受けていたときに
いわゆる売春的なアレをさせられていたというかしていた時の・・・あまり説明するのもアレだけど、
要するに設定がちょっとハードすぎて聲の形であった純情ラブコメ成分はどこー!?みたいな。

ぎゃー甘すぎる!こんな告白とか死ぬる!西宮ちゃんが精一杯の大声で「うき(好き)ぃ!」と告白するのに聞き間違える主人公とかラノベかよ!とか
いやまあ聲の形も人間同士が向き合ってぶつかり合ったりして人間の汚さとかも描かれてたけど、大分ベクトルが違う感じ。


いやディスりたいわけじゃなく、マルドゥック・スクランブル自体は冲方丁先生の原作はかなりレベルの高いSF作品だし
漫画版もエログロはともかくヒロインのアクションやらSF分もかっこいいしいい作品だからSF好きなら読んだら間違いなく楽しめるけど
大今先生の作品としてみた場合、作品間のギャップがすごいな、って。ただそれだけの話。
(ていうか単純にオリジナル作か原作付き作品かの違いだけでは・・・?)(まあいいじゃん)


大今先生の次作の形はどんな風になるのかなー。聲の形の作風を引き継ぐのかまた全然違ったものになるのか・・・楽しみです。